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| 【1】 思い出のケンブリッジ −ダーウィン家の子どもたち− グウェン・ラヴェラ著/山内玲子訳/秀文インターナショナル/1988 |
無人島に3冊、本を持っていくとしたら。私が選ぶのは『思い出のケンブリッジ』、『高慢と偏見』、『雨柳堂夢咄』、かな? 雨柳堂は、とても迷うけれど第2巻。唐子の話が大好きだから。 で、最初に選んだ『思い出のケンブリッジ』のこと。『種の起源』で有名なダーウィンの孫にあたるグウェンの自伝(ただし彼女が生まれる前の、父親ジョージと母親モードが出会った頃から、彼女が23歳でスレイド美術学校に入るところまで)。19世紀末の英国に興味のある方は是非、読んでみて下さい! 1883年の春、アメリカからケンブリッジにやって来た母モードの目に映るイギリスとイギリス人を、彼女がアメリカの家族に書き送った手紙をもとにグウェンが描き出したのが、第一章「プレリュード」。母モードについてのグウェンの文章は、母子というよりは友人、それも年上の先輩が後輩の行動をからかいながら書いているようで二重に可笑しい。実際、この本を書いた時グウェンは67歳だったので、結婚前の若いお嬢さん(母)の社交については余裕で語れるわけですが。 初めは母も、ジェラルド(・バルフォー。政治家、心霊学研究者。兄のアーサーは日英同盟の際の首相)をすばらしいと思っていた。「まさに、イギリス貴族のイメージそのものみたいなかた。・・・本当にハンサムなの。」しかしそのうち、アメリカの独立精神が頭をもたげてきた。「あんな保守的な人は初めてだわ。貴族など身分の高い人間が下の階級の人たちによい手本を示す、なんてことを、本気で信じてるのよ。他にもいろいろ、本には書かれていても本当に信じている人はいないようなことを信じているんです。」モードは叔母(モードの母の妹、イギリス人と結婚しケンブリッジで暮らしていた)が引き合わせたダーウィン家の次男ジョージと後に結婚するのですが、その前に色々あったロマンスをはじめ、あらゆることを天真爛漫に家族に書きつづっていて、グウェンとしても話題に事欠かず、楽しんで書いるように思えます。叔母と行ったロンドンの芝居見物、買い物など。どんな劇であったか、どんなドレスを着ていったか、どんな帽子を買ったか、何故ここまで・・・と思うほど書いています。当時流行していた「審美的ドレス」のことやら「イギリスの礼拝の長いこと」やら、彼女の手紙は、当時を生きた人にはまったくどうでもよい話ばかりかもしれませんが、外国人の目で見たイギリスについて感想はそのまま、19世紀末のイギリスを知りたいと思う現代の人々のために興味深い点をピック・アップしてくれているような、貴重な証言ばかりです(ちょっと大げさ?)。 第二章「ニューナム・グレンジ」では両親が結婚後住んだ、すなわちグウェンが生まれたケンブリッジの家の様子が語られていて、第三章「教育理論」あたりからようやくグウェンと弟妹、従姉妹たちが現れ、「ダーウィン家の子どもたちと、おじ・おばたち」の話になってきます。「教育について」「淑女たち」「紳士淑女のつつしみ」を読むと、この時代の、この階級の社会風俗がよくわかり、またヴィクトリア朝時代の人々と次の(ブルームス・ベリー・グループなどの)新しい世代との違いも見えてきて面白い。 フランク叔父もまた、理解に苦しむ態度を見せたことがあった。娘のフランセスが、フランシス・コーンフォードと結婚した後、ある有名な作家に会いにいった。その作家は、妻としばらく別居していたが、また家に戻ってきていた。心を入れかえたとしてほめられ励まされてもよさそうなものだったが、実際は、戻ってきたからといって彼に対する評判は良くはならなかった。それどころか、フランク叔父は、娘夫婦がよくもあんな男の家に近づけたものだ、と手紙で慨嘆した。叔父の観点から見れば、反社会的なふるまいをした男にコーンフォード夫妻がわざわざつき合いを求める必要はない、ということなのだろう。その男がおもしろくて生気あふれる人間であるという事実は、この際、関係ないわけである。この作家が誰なのか気になります。それにしてもこのおじ・おばたちというのが、とにかく変わっているのです。第七章「エティ伯母さん」は、父の姉にあたる人についての話ですが、86歳の時に「生まれてから一度も自分でポットにお茶を入れたことがない」と言った、生粋のお嬢様。13歳のときに軽い熱を出して、医者が「当分」ベッドで朝食をとるよう勧めたが、「それ以来一度も」朝食に起きなかったらしい。グウェンによると、ダーウィン家では病気であることが名誉であり、陰気な楽しみだったそうで、病気がちな祖父(チャールズ・ダーウィン)を敬愛するあまり病気まで真似する傾向があったという。しかし。 伯母の場合、病気への関心は決して自己憐憫がまじらず、抽象的で、ほとんど科学的な関心だった。私たちの同情は必要ではなかった。伯母は職業上の生活と社交上の生活を、はっきりと切り離していた。(中略)かぜがはやると、伯母はよく自分が考えだしたガスマスクのようなものをかけていた。細かい金網の茶こしに消毒した脱脂綿をつめて、耳の上にわたしたゴムひもでとりつけると、まるでとがった鼻のようだった。これをつけたまま訪問客に会い、ユーカリ消毒液のにおいに隔てられてこもった声で政治問題を語ったりした。客が吹き出すまいと必死にこらえていることにも、まったく気づかないのだった。このマスク、グウェンの描いた挿絵が同じページに載っていますが、カラス天狗ですか?というくらい奇妙なもので大笑いです。「伯母の職業」とは「病気」のことで、グウェンいわく、「エティ伯母は不幸にして淑女だったから、何一つ仕事といえる仕事がなかった」。ショールを羽織るにもベルで小間使いを呼ぶくらいの御方ですから「家と夫の面倒をみる以外には、伯母は無限の愛情とエネルギーを注ぐ対象がなかった」「病気が伯母の職業、人生の関心事になってしまった」とのこと。またこの伯母は子どもたちに本を読み聞かせる時に「子どもに聞かせるには不向きと思うところは適当に変え、数ページをとばし、挿話をごっそりぬき、それでいてつぎ目が分からないように、上手に物語のつじつまを合わせることができた」そうです。『ドン・ジュアン』という二人の取替え子の話を読んだ時の話。 結局、よい子が悪人の子どもで、悪い子が善人の子どもであることが分かるのだ。ところが、こんな優生学上の混乱はとてもエティ伯母の受け入れられるところではなかった。そして、道徳上の特徴は他の特徴と同じように親から子へ遺伝するという真実を貫くために、伯母は物語の筋をすっかり変えてしまい、よい子は善人の両親から生まれ、悪い子は悪い両親をもつ、という事にしてしまった。この話を読んでもらった時、私たちはもうかなり年がいっていたのだが、だれ一人としてこのまやかしに気がつかなかった。三十年も経ってから、たまたま私がこの本を見つけて、ようやく明るみに出たのだった。エティ伯母が、進化論のダーウィンの娘であることを考えるとこの逸話は非常に興味深い。ような気がする。同じように別な章に書いてあったレニー叔父(ダーウィン家四男レナード)との優生学についての激しい議論も興味深い。 叔父が、どういう人間に子孫をつくることを奨励するかの唯一の基準はお金だ、と主張するので、私はひどく驚いた。「金を稼ぎ、それを維持する人間こそ、生き残るために絶対必要な資格をもっているのだ」と叔父は言った。私は反論した。芸術家や哲学者、発明家やジプシーなどにとって、お金はほとんど必要でない。こういう価値ある種類の人間がまったく子孫を残さないことになったら、取り返しのつかない損失である。だれもが郊外の小こぎれいな住宅に住み、お金を稼いでためる生活なんて、考えただけでも気がめいる――いったい、何のためにお金を稼いでためるのか?すると叔父は、芸術家に用はない、ジプシーはたいてい不潔で不正直だ、とかわすのだった。ダーウィン家の人々は芸術をたいして重要でないとみなしていたらしいので、いきおい、こういう発言が飛び出すのでしょうが、科学における彼らの創造的で情熱的な仕事振りを考えれば、彼らもまた「芸術家」でした。(ジプシーという言葉は、そのまま引用しました。その後の版では変えられているかも。)この逸話はまた、グウェンのスレイド美術学校入学への道のりが、長く険しいものだったのだろうな、と思わせるものでもあります。 訳者あとがきによると、この本は1952年、出版と同時に大変な好評を博し、ケンブリッジでは今日も広く愛読されているそうです。アメリカでも出版され、やはりベストセラーになったとか。ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーのリストでは、第八位の新版聖書を抑えて第七位、第六位はキンゼー報告男性編で、グウェンはこの順位を大いに面白がったそうです。そうでしょうね、グウェンならそうでしょう。 (2002/02/18) |