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| 【2】 古い手紙 −日本の学童疎開− |
2002年5月初めに、明治生まれの祖母が亡くなりました。(祖母の死について思うことは色々あるのですが、ここでは触れずにおきます。) 遺品の整理を手伝っていた時に、祖母の持ち物の中から古い写真、手紙、葉書などがたくさん出てきました。「など」の中には私の伯父の、尋常小学校の通信箋(昭和拾参年度)も。写真は主に祖父のもので、大学生の頃(大正〜昭和)のものや、銀行員時代のもの、軍隊での訓練風景(?)のようなものまであったのですが、伯母たちがもういい、捨ててしまって、と言うので、私が「処分するなんてとんでもない!」と、古い写真のほとんどを貰ってきました。しかし貰ってきたのはいいのですが、「いつ/どこで」撮ったものなのか、確認するにはかなり時間がかかりそうです。 手紙類は戦後のものがほとんどで、氏名や日付も入っているので写真よりは整理が楽でした。そんな中、日付は無いのですが、小学生だった伯母が疎開先から2歳上の伯父宛てに書いた手紙が出てきました。『学童疎開』の小学生の生活がわかる興味深い手紙なのでご紹介します。 文章は縦書きで、自分で罫線を引いたB5くらいのわら半紙に鉛筆で書かれています。読点が多いので読みにくそうですが、字はしっかりとした楷書できれいに書かれています。伯母に「こんなのが出てきたよ」と見せたところ、本人も丁寧に書かれた字に驚き、「艦砲射撃なんて難しい字、よく書けたもんだね!」と自画自賛しておりました(しかし「艦砲射撃」は書けたのに食堂の「堂」の字は書けなかったという・・・)。 この手紙は終戦直前の昭和20年に書かれたものだそうで、当時11歳だった伯母は長野県のある村に疎開しており、伯父は東京の家におりました。私の持つ『学童疎開』のイメージと異なり、子どもがあまりお腹をすかせていないように思えたので実際はどうだったのかきいてみたのですが、やはりご飯は軽く一杯だけで、あとはみそ汁と漬物(?)というような一汁一菜だったそうです。食べ物には困っていないようにみえるこの手紙は、たまたまそんな時に書かれたのか、あるいは家族に心配かけまいとしてこういう内容になったのか、本人は「もう覚えていない」そうです。 私は、「第一線の〜」のあたりを読んだ時に、字といい内容といい、これが小学生の手紙なのか?と何とも言えない気持ちになりました。前年の昭和19年秋に祖父が戦死していましたので、ここに書かれた「敵」という言葉は単に国が戦争をしている相手・敵国というだけでなく、本当に憎い相手・父親の仇という意味を持っているように思えたのです。このすぐ後の敗戦を、伯母がどのように受け止めたのかきいてみたかったのですが、(そもそも祖母が亡くなったばかりという状況だったので)祖父の死にも関係するこの話は、それ以上続けることはできませんでした。機会があればあらためてインタビューしてみたいです。 ※文字はできるだけ書かれている通りの古い文字を使い、誤字はそのままにし、固有名詞は□□や○○のように伏字にさせて頂きました。 (2002/05/22) |
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